【鍼灸には存亡危機があった】
〜古代から現代まで鍼灸の歴史を解説!〜
みなさんこんにちは。
今回の記事では、鍼灸の歴史についてまとめました。
この記事を読むと、鍼灸が発達した経緯や鍼灸が近現代でどのように発展していったのかなど、鍼灸について有益な情報をたくさん知ることができます。
ぜひご覧ください。
鍼灸は、2000年以上前の春秋戦国時代の中国で誕生しました。
春秋戦国時代といえば、儒教や論語で有名な孔子が活躍した時代です。
ちなみに、当時は現在のような細い鍼はなく若干太めの鍼であったため、安全性を考えて体の奥まで刺せなかったと考えられています。
「四面楚歌」の由来である項羽と劉邦の戦いで勝利を収めた劉邦が建国した漢の時代になると、中国最古の医学書である黄帝内経が完成しました。
黄帝内経は鍼灸をはじめ、漢方やあん摩など現在の東洋医学のもとになった書物です。
ちなみに黄帝という人物は、実際には存在しておらず架空の人物とされています。
実際には存在していない人物という点では、日本でいうところの聖徳太子と同じだと思います。
この黄帝内経は、前半の霊枢では鍼灸やあん摩について、後半の素問は黄帝が6名の医師に日常の医学の疑問をぶつける形式で書かれていたとされています。
しかし、黄帝内経の原本の一部は散逸してしまいました。
散逸というのは、現代に本が一部または全部が残っていないことです。
このため、黄帝内経の原本の正確な内容は謎に包まれています。
中国史といえば、三国志の時代がお好きな方もいらっしゃると思います。
劉備・関羽・張飛の義兄弟などの猛将が活躍した時代です。
三国志の三国、つまり魏・呉・蜀が争った時代は日本でも非常に知名度が高いですよね。
先述した三国のうち、最も勢力の強い国であった魏の国王である曹操は、頭痛持ちとして知られていました。
頭痛持ちの曹操は、華陀という名医に鍼治療をしてもらったことで頭痛が和らいだことをきっかけに、彼を 侍医(専属医)として召し抱えます。
華陀は曹操の頭痛だけでないあらゆる病気の治療に、鍼灸を用いて担当しました。
しかし華陀は、当時の医者の地位が極めて低かったことへの不満や、曹操だけでなくあらゆる人の病気を治療したいという思いを抱くようになり、妻が病気だと偽り実家へと帰ってしまいます。
曹操は何度も華陀に魏に戻るよう伝え、しまいには彼を強制的に魏へと連れ戻します。
華陀は曹操に、自分の妻が病気であったことは嘘だったと伝えると、曹操は激怒し、連日華陀を拷問してしまいます。
衰弱しきり死期を悟った華陀は、獄中で後世に自身の知識が役立つように医書を書きます。
しかし、曹操は「おまえのような名医など、世の中にたくさんいる」と豪語し医書の受け取りを拒否します。
この結果に絶望した華陀は自身の医書を焼き払い、続く拷問により帰らぬ人となりました。
余談ですが、曹操は66歳で亡くなるまで頭痛に悩まされ、また彼の息子が名医を必要とするような大病にかかったときには、華陀を殺さなければよかったと後悔したそうです。
また華陀は、重病の患者を前にしたとき、自身の経験から華陀夾脊穴という独自のツボをひらめいたといわれています。
華陀夾脊穴は現代の鍼灸の教育現場でもよく使われるため、華陀の鍼灸界での知名度は現代においても非常に高いのです。
鍼灸が中国から日本へと伝来したのは、日本が大和朝廷だった6世紀頃です。
中国から直接伝来したわけではなく、朝鮮半島経由で伝来したとされています。
織田信長や豊臣秀吉が活躍した安土桃山時代には、御薗意斎という凄腕の鍼博士が現れます。
彼は、当時の天皇専属の鍼博士として活躍し、太く長い金銀製の鍼を小さな木づちで叩いて打ち込む御薗流鍼術を考案しました。
御薗流鍼術は、患者に問診をする前に患者のお腹の調子を見てから施術を行うという施術です。
当時は患者の問診が施術よりも先に行われていたため、画期的な施術として注目を集めました。
彼の著書である『鍼道秘訣集』によると、次のような内容が書かれています。
「お腹の調子を何よりも先に診ることで、病気の原因を調べることができます。こうすることで、患者の生死や術後の経過がどのようになるかがある程度予想できるのです。」
この御薗流鍼術は、天皇家の間からも非常に好評でした。
そのため、安土桃山時代から江戸幕府崩壊前まで10代にわたり彼の代々の子孫が御典医を名乗ります。
御典医とは、天皇家に仕える直属医のことです。
江戸幕府が崩壊し、明治時代に入ると鍼灸は存続の危機に立たされてしまいます。
江戸幕府が行っていた鎖国制度がなくなり、海外から様々な医療書が伝来したことで、西洋医学が急激に発展しました。
血液検査や体重測定など、細かいデータに基づいた西洋医学が発展したことで、データによらない東洋医学は必然的に衰退し、存続の岐路に立たされてしまったのです。
第二次世界大戦が終結し、敗戦した日本を統治したGHQは、衰退していた鍼灸を禁止しようと試みます。
なぜならGHQは、鍼灸について次のような考えを持っていたからです。
・鍼灸は消毒設備および消毒意識が欠けており、不衛生である。
・鍼灸に科学的根拠はまったくない。
・人体にあえて針を刺すことやお灸をすえることは、我々西洋人から見て怪しげな行為である。
このGHQの試みに当時の鍼灸師たちは、当然ながら猛反発します。
戦後まもない日本では、チフスやジフテリアといった感染症が大流行しました。
このような病気の感染が流行した原因は、消毒が不十分だった上水道の汚水を飲んでいだことによるものであったと考えられています。
このような状況から、GHQは医療行為上の消毒を最重要視していました。
権威ある鍼灸師たちは、消毒の設備及び意識が欠けているという指摘について、全国の鍼灸師へ鍼治療を行う際は、消毒を徹底するよう再教育し、将来は鍼灸専門の大学を作るという夢を語ることでGHQの説得を試みます。
さらに厚生労働省のもとになった厚生省の長官に、鍼灸師の有志が実際に鍼治療を行いました。
これは、鍼灸は決して単なる怪しげな行為ではなくれっきとした医療行為であり、科学的根拠があるということをGHQに立証しようとしたために行った秘策でした。
このほか、全国から集まった鍼灸師たちが60日間にわたり、東京でデモ・座り込みなどを展開するなど、鍼灸禁止への抗議活動が続けられました。
そして、GHQはこれらの取り組みに対し、いわば白旗をあげるような形で鍼灸の禁止案を撤回し、のちに制定された日本国憲法で鍼治療を公に認めたのです。
日本国憲法で鍼灸がれっきとした医療行為であることを認めたのちには、鍼灸は漢方やあん摩などの東洋医学だけではなく、西洋医学とも混ざりつつ発展を遂げていきます。
1950年代になると海外、とりわけヨーロッパの医療団体との学術交流がさかんに行われます。
この学術交流は、鍼灸が西洋へ波及するきっかけとなりました。
1983年、日本で初めて鍼灸教育に特化した4年制大学である明治鍼灸大学が開校します。
GHQに語った鍼灸師たちの夢が35年ほどの時を経て実現した形です。
そして2008年、WHOは日本・中国・韓国の鍼灸師の代表を集め、鍼灸のツボの位置を国際標準化しました。
国際標準化には、ツボの位置を明確に定義することで、全世界に鍼灸のよさ・鍼灸の素晴らしさを正しく伝える狙いがあります。
そして現在、鍼灸は世界中へと広がり、多くの患者を救う治療として愛されているのです。
いかがでしょうか。
前述したように、鍼灸の正しい効果や必要性が伝わるまでには長い年月を要しました。
しかし現在、鍼灸はあらゆる病気に有効的な治療法として確立されてるのです。
ここまでを読んで鍼治療を受けてみたいという方は、当院にお任せください。
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それでは読んでいただき、ありがとうございました。
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